| 遺跡・史跡・道標・碑 |
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| 1.遺跡 |
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上野遺跡
上野一号墳・上野遺跡
(上野古墳群1号墳)
上野遺跡は弥生時代から室町時代にかけての集落跡で、宅地造成に際して平成元年・同2年に発掘調査が実施されました。
上野一号墳・上野遺跡も宅地造成に際して平成28年12月から二カ月間の調査が実施されました。 |
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| 2.史跡 |
海蔵庵窯趾(唯福寺境内)
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文政12年(1829年)、唯福寺十三世住職教正師は、信楽陶工の上嶋庄助を招き、同寺前に窯を築いて陶器の製造を「始め、同師も寺内に趣味の陶器を作る楽只窯(らくしがま)窯を築いく。これが四日市市における製陶の始まりで、同住職は貧しい生活をの付近農民に職をもたらし、産業化を図る。当時は釉薬・顔料・道具などが得られず、信楽から移入するなど多くの苦労があったが、同住職は私財を当時て当時の四日市代官の支援を得て御用窯となる。慶応年間には一時途絶えたが、この技術が受け継がれ、桑名萬古の合流もあって今日の萬古焼として定着して行ったことから萬古焼発祥の地と言える。
 
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| 三ツ谷一里塚跡 |
江戸日本橋を起点として一里(約4キロ)毎に旅人の目印として榎や松を植えた。三ツ谷の一里塚は海蔵川中にあり、現在のところに石碑を建てた
( 三ツ谷町7−24地先 海蔵川の海蔵橋下左岸堤防沿い あおぞら公園内) |
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| 対欧無線電信海蔵受信所 |
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現在の松ケ丘とその南に地元の人が「無線電信所」と呼ぶ施設がありました。昭和30年代、海蔵小学校の秋の写生大会にはその「ムセン」までクレパスとベニヤ板の画板を肩にかけて歩き、高くそびえる鉄塔と周りの風景を描きました。
太さ20センチくらい、10メートルくらいの松が、整えられた芝生に間隔を置いて生え、解放感と落着きを感じさせる空間でした。
ここで紹介するのはヨーロッパからの通信をそこで直接受信し、名古屋を経由して全国の宛先に届けていた海蔵受信所のものがたりです。 |
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| ジュニア版 |
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1.はじめに
2.いつごろ作られたのですか
3.どのような設備があったのですか
4.どのような活躍をしたのですか
5.いつごろまであったのですか
6.おわりに |
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| シニア版 |
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| 1.はじめに |
| 2.務めた役割 |
| 3.受信所の設備 |
| 4.あとがき |
| 編集後記 |
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| .海蔵受信所修正版 |
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| 3. 道標 |
| いつの頃からのものなのか、地区内の路傍に、あるものは堂々と、またひっそりと道しるべが残されています。 |
| 地区内のすべてのものではありませんが機会あるごとに取り上げていければと思います。 |
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西阿倉川町の道標
右側ー羽津 左側ー小杉
(西阿倉川1627番地先) |
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東阿倉川町の道標
右側ー羽津 左側ー垂坂
(東阿倉川179番2地先) |
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野田町(2丁目)の道標
右側ー生桑毘沙門 左側ーあみだ
(野田二丁目17−25地先) |
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緑ケ丘町の道標
右側ー垂坂観音寺
左側ー西阿倉川町
(大字羽津甲3511地先) |
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国宝元三大師(垂坂町)案内道標
三ツ谷南町国道1号線沿い
(多度神社前) |
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(平成14年2月28日発行) |